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(前号のつづき)
ニクソン・ショック
1971年8月15日に米大統領リチャード・ニクソンが、ドルと金の交換停止と為替変動相場制を採用するという、事前に米議会にも知らされて国策の大転換を突如発表。
この金融政策による大幅なドル安誘導により、XAUUSD=35ドル、USDJPY=360円で固定されていた相場は解除され、先進国は相次いで変動相場制に移行するプロセスを開始。12月にUSDJPYは308円とされた。
ベトナム戦争(1960-1975)の最中、ドルは大幅な切り下げに成功することになるが、現在も膨れ続ける貿易赤字はこのときに生まれた負の産物である。
第一次オイル・ショック
1973年10月6日、第四次中東戦争開戦による原油価格の急騰。
10月16日にペルシア湾岸の産油6ヶ国(石油輸出国機構(OPEC)加盟)が、原油公示価格を3.01ドルから5.12ドルへ70%の引き上げを発表。
翌日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油の減産を決定。更に10月20日以降のイスラエル支持国への原油禁輸措置を決定。イスラエルが占領地から完全撤退するまで禁輸解除はしない、とされた。
12月23日、OPECは更なる原油公示価格の引き上げを発表。1974年1月より、5.12ドルから11.65ドルへの引き上げを決定した。
当時の日本はイスラエルを支援したことはなく立場は中立であったが、最大のイスラエル支援国である米国と強力な軍事同盟で結ばれているために、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高かった。そこで既に国内大混乱の中、当時の三木武夫副総理を中東諸国に派遣し、日本の立場を鋭意説明して周り、支援国家リストから外すよう交渉を行った。
国内ではニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃した。オイル・ショックの以前から、国家プロジェクトである「列島改造計画」による地価急騰に伴う急速なインフレが発生していたが、そこにオイル・ショックにより工業製品の高騰はもとより便乗値上げが相次ぎ、更にインフレが加速された。1974年の消費者物価指数は23%に達し、「狂乱物価」という造語が生まれた。
インフレを抑制するために公定歩合は急ピッチで引き上げられた。第四次中東戦争開戦前の1973年7月23に7.50%から9.00%に引き上げられ、同月30日には11.50%に引き上げられた。1974年は-1.2%の戦後初のマイナス成長となり、ここに高度経済成長期は終焉したが、インフレは止まらず1976年10月の公定歩合は15.00%に達した。
第二次オイル・ショック
1978年12月にOPECが原油公示価格を14.5%値上げすることを決定した。これはイラン革命(またはイスラム革命)に伴う、イランでの原油の大幅減産を見越した措置である。
国内では、第一次オイル・ショック並に原油価格・工業製品が高騰したが、第一次オイル・ショックからの学習効果により様々な政策が取られ、以前ほどの混乱には発展しなかった。やがてイランも原油の生産を再開し、原油価格はすぐに下落へ転じた。
(次号につづく)
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