さて、前号で見てきたとおり東日本大震災発生から深夜まで、コミュニティに次々とコメントが寄せられる中、わたし自身の行動も綴っていきます。
地震発生時、わたしは東京の江戸川区にいました。自宅は北区でしたが、特にマーケットも動いていなかったこともあり、ノートパソコンを持って仲間のトレードルームに遊びに行っていたのです。
(目次へ戻る)
(前号のつづき)
・1103月限SQ日、大引け直前に襲った東日本大震災
揺れ初めは小さかったように記憶しています。(たぶん)1分ほど小刻みな揺れが続いた後、大きな揺れが襲ってきました。
「おいおい、長いな。ヤバくないか?」
「どんどんデカくなるぞ」
そんなことを言っているうちに、小刻みな揺れから横に大きく振られるような揺れに変わりました。水槽の水がバシャンバシャンと溢れ、床は水浸しになりました。机の上から放り投げられた本や文具は散乱し、あらゆる棚が飛び出してきました。天井を見上げると建物全体が左右に大きくきしんでいるのが容易にわかりました。
「これはダメだ!逃げよう!」
わたしはそう言い、ノートパソコンを抱えました。友人は机にしがみ付いたままパソコンに向かっており、現役時代に習ったという非常時のマニュアルを実行していました。
「何してるの!早く外に……!」
わたしは催促しました。最初の揺れから(たぶん)3分は経過していると思います。しかし揺れは一向に収まりません。経験したことのない長く大きな地震に恐怖し、ただならぬ状況を察していました。
「よし終わった!いくぞ!」
友人は大声でそう言うと、ノートパソコンを抱えました。わたしたちは廊下に出て非常階段に向かいました。既にエレベーターは止まっていますので、非常階段は避難を始めている人たちで混雑していました。
お年寄りは一段一段、ゆっくりと降りることしかできず、しかし後ろからは人の波に押されます。揺れが続く中での非常階段の避難は想像以上に時間がかかりました。
・電話は発信制限、データ通信は生きていた
やっとのことで地上にたどり着くと、落下物に注意しながら建物から離れます。皆、自然発生的に公園に集まっていました。
地震発生から(たぶん)30分は経過していると思います。日経平均先物は既に日中取引を終えている時間です。30分もあればプライスはどこまで動いたか見当も付きません。
わたしと友人は身内や知人の安否を確認するために、何度も電話をしました。しかし発信制限によりつながることはなく、誰とも電話連絡を取ることができませんでした。
避難してきた他の人たちはケータイのワンセグを見たり、しきりに誰かと連絡を取ろうとしていました。わたしたちはノートパソコンを立ち上げ、ネット回線をつなげました。電話は通じませんでしたがメールの送受信やskypeで連絡を取ることができ、データ通信の回線は生きていました。
「東北地方の太平洋沿岸、津波警報ではなく大津波警報?なにそれ聞いたことないけど……」
付近でワンセグのニュースを見ていた人が不安げに言います。
ネット回線がつながり日経平均CFDのプライスを確認すると、たしか10300円ほどであったところから、やはり暴落(※)しており現値は10100円前後、チャートから安値10000円を少し割り込んだところから100円超幅の乱高下をしている最中であることがわかりました。
日経平均先物は地震発生後の15:15にクローズしているので、CFDでプライスを追います。通貨や商品など、他のマーケットを見る余裕はありませんでした。
(※)「%」で考えると暴落の規模が分かりやすいでしょう。
・当時:日経平均10300円 → 約10000円【-300円/-3%】
・現在:日経平均21500円 → 約20850円【-650円/-3%】
・世界中のプロは先物を売ってから逃げる
友人は日経平均先物をショートしてトレードルームから避難してきていました。
【売って逃げろ】、非常時のマニュアルとして現役時代にそう習ったそうです。例えショートすることに気が咎めたとしても、世界中のマーケットのプロは皆、そうするそうです。マーケットとはそういう場所なのです。
・夕場オープン、プット裸売り
16:30、わたしたちは夕場のオープン前にトレードルームに戻りました。物が散乱し水浸しのままのトレードルーム、テレビのチャンネルをNHKに合わせると、各地の地方局を繋げて地震関連の速報を流していました。
東北地方の一部の太平洋岸とは今のところ連絡が取れず、どうやら津波で壊滅した街があるようだ、ということ。わたしたちは東北地方を中心とした広域大規模災害に巻き込まれているということを、ようやく認識しました。
「ああ……なんてことだ……」
テレビの画面にそうつぶやきました。東京都心の被害は小さいようで、停電も起きていませんでした。しかしいまだに震度3~4程度の余震が続いており、建物の中にいるとまたいつ避難を迫られるかわかりません。わたしたちは、お互いの家に帰ることにしました。
トレードルームを出た後、スクエアだったわたしは拘束から解放された証拠金で、日経平均オプションのポジションを取りました。「プット裸売り」です。
≪04P7500S@6円*5枚≫ (4月限プット7500を6円で5枚ショート)
≪04P7000S@2円*10枚≫ (4月限プット7000を2円で10枚ショート)
つい先ほどまで1円売り注文がズラリと並んでいたようなFOTMプットのクズオプションに、こんなプライスが付いているなんて明らかに割高だ、そう思いました。
ここから更に2500円の暴落を起こし、7500円の売りオプションがインすることはない、多少下落が進んだところでP7000はせいぜい5円程度だろう、そのように考えていました。1枚当たりのオプション売り証拠金は僅か7000円でした。
友人と別れたわたしは、とりあえず近くのファミリーレストランに入りました。電車が止まっていたので復旧するまでの間、場所を借りようと思ったのです。ノートパソコンを広げてマーケットを確認すると、日経平均の下値は更に拡がっていました。
・欧州タイム午前、プット・レシオ・スプレッド
≪オプション価格が高いか安いかを決めるのはボラティリティなのである。(多くの本やアナリストによると、「割高な」オプションとか「割安」なオプションという言い方がされている)
これはトレーダーにとって危険な誤称であり、不要な損失を出す原因にもなる。例えば、数か月で木材が10000から40000に暴騰した1993年に、(木材価格が20000に達した時点で)木材のコール・オプションは「割高」だと言われただろう。
このオプションは、史上最も高いボラティリティで、「通常の」市場の水準より10倍も高かったのだ。しかし、この「割高な」コール・オプションを売ったトレードに何が起こっただろうか。
また1987年、1989年のS&P10月限の下落時に、そして湾岸戦争時の原油価格の下落時に、「割高な」プットを売っていたトレーダーにとってはどうだっただろうか≫
『デビッド・L・カプラン』~カプランのオプション売買戦略~
【厳選必読本リスト】日経225オプション取引戦略編日経225オプション取引を実践するにあたり、わたしが勉強になったと思う本を厳選ピックアッ……
ファミリーレンストランでノートパソコンを広げ情報収集を行います。次第に地震による各地の被害が明らかになっていく中、さすがにこの状況で「プット裸売り」をしているのは愚か者だ、と思いました。
すぐに≪04P7500S@6円*5枚≫のポジションを利食いし、新たに≪04P8500L@17円*1枚≫を建て、「プット・レシオ・スプレッド」にしました。
この時点でのポジションは以下の通りです。
≪04P8500L@17円*1枚≫ (4月限プット8500を17円で1枚ロング)
≪04P7500S@6円*5枚≫ → 利食い返済
≪04P7000S@2円*10枚≫ (4月限プット7000を2円で10枚ショート)
売玉10枚に対して買い玉1枚の「プット・レシオ・スプレッド」は、かなり怖いもの知らずのポジションです。ハッキリ言って先の「プット裸売り」と大差はありません。
当時のわたしはスマイルカーブなど気にもしていませんし、ポジションの合成グリークスを計算することもありませんでした。オプションについて理解はほぼ皆無、何も知らなかったのです。
・夕場クローズまで更なる暴落は起きなかった
それからファミリーレンストランで2時間ほど待つも、電車は本日中の復旧は見込めないということで、タクシーで帰ろうと考えました。しかしどの道も大渋滞で車は動きが取れず、しかたなく自宅まで12.5kmの道のりを歩いて帰ることにしました。
23:30、金曜日の夕場がクローズするため保有ポジションの週持ち越しをするか決断をしなくてはなりません。道中、ケータイの電池を節約しながら度々プライスを確認していましたが、更なる暴落はありませんでした。欧州タイムはジリジリと安値を攻めていたものの、引け前にかけてむしろリバウンドをしていたほどです。
そして思惑通り「プット・レシオ・スプレッド」には利益が出ていました。この「プット・レシオ・スプレッド」に利益が乗っているということは、OTMプットのボラティリティはかなり上昇しているものの、FOTMプットはそこまで盛っていなかった(反応薄だった)のではないかと推測できます。それを見てわたしは「最悪期は脱した」と考え、そのままポジションの週越えをする決断をします。
このとき、福島の原発で二次災害が広がりつつあることなど思いもしませんでした。
自宅に着いたのは夜中の1時を回っていました。
(次号につづく)
(目次へ戻る)